気候を揺さぶる海洋微生物

人類の時代ともいわれている第四紀は,10万年周期の氷期‐間氷期サイクルで特徴づけられる。南極の氷床コアによると,大気中の二酸化炭素濃度は氷期には190 ppmv まで低下し,間氷期には280 ppmvにまで回復している。大気中の温室効果ガス濃度の変動は,気候変動と深く関わる。
大気中の二酸化炭素濃度を変えるものは,海洋微生物のバイオポンプである。海洋表層で光合成微生物が繁殖し,その遺骸が沈んで深海や海洋底堆積物にとりこまれている。
氷期には,南極海などで光合成微生物の一次生産が高まった結果,バイオポンプで運ばれる有機物が増え,大気中の二酸化炭素濃度が低下した。
では,なぜ氷期に光合成微生物の一次生産が高まったのか。その原因は,硝酸イオンやリン酸イオン,鉄イオンなどの栄養塩類の変動にありそうだ。最近,アルタベット[解説]らは,オマーン沖で採集された海底掘削コアの有機物の窒素同位体比を測った。その結果,氷期には脱窒菌による硝酸イオンの消費率が低下し,海洋全体の硝酸イオン濃度が増加したことが,一次生産増加の原因だと論じた (M. A. Altabet et al.: Nature,415, 159–162 2002)。
窒素には,窒素14と窒素15がある。窒素同位体比は,窒素15と窒素14の存在比から,大気での存在比を引いた千分率で表される。
表層海水の硝酸イオンの窒素同位体比は+5–+6‰である。溶存酸素の乏しい深層水では,脱窒菌は有機物の分解に硝酸イオンを使うが,その際に,選択的に窒素14を含む硝酸イオンが使われるため,窒素同位体比の分別が起こる。アルタベットらは,上述のコアを解析し,過去6万年間の窒素同位体比を,高い時間分解能で復元した。それによると,窒素同位体比は寒冷な時期で約+5‰で,温暖な時期には+7–+9‰まで上昇しており,その変動パターンは,グリーンランドの氷床コアに記録されたダンスゴー‐エシュガー・イベント (数千年スケールの大きな気候変動パターン; ダンスガード‐オシュガー・イベントとも) と極めてよく似ていた。
溶存酸素の乏しい深層海水で,脱窒菌が窒素14からなる硝酸イオンを消費すると,海水に残った硝酸イオンは,窒素同位体比が高くなる。一方,海水中に酸素が豊富に存在すると,海水中の有機物の分解は酸素が使われるので,硝酸イオンの消費量は低下し,窒素同位体の分別も小さくなって,同位体比は低くなる。
この窒素同位体比の分別を受けた深層海水が,大陸棚にわき出して光合成微生物が繁殖し,その遺骸が堆積物中に取り込まれる。分析に用いられた試料の窒素同位体比は,こうした履歴を記録している。
つまり,オマーン沖では,温暖な間氷期は溶存酸素の乏しい深層海水の領域が拡大し,盛んに脱窒反応が起こったが,寒冷期には反応が滞った。
しかし,なぜ温暖期に溶存酸素の乏しい深層海水が拡大したのか。その理由はいろいろと考えられる。温暖な気候下では,モンスーン変動に伴ってオマーン沿岸で深層海水が湧き出し,周辺で光合成微生物が繁殖した結果,深層海水に含まれる有機物濃度が増加した可能性がある。あるいは,ペルシア湾から,高温・高塩分濃度で,溶存酸素濃度が低い海水が流入量した可能性もある。
脱窒菌の硝酸還元は,海洋全体の硝酸イオンの存在量を変動させる。脱窒菌による硝酸イオンの消費は,オマーン沖のほかに赤道太平洋東岸でもあり,全海洋における硝酸イオン消費のほとんどが,この2地域のものである。
その消費率は,従来の値よりかなり大きい200–250 TgN⁄yr (Tg = 10¹²g) である。一方,硝酸イオンは,海洋微生物の窒素固定や,河川からの流入などから供給され,その供給率は約100 TgN⁄yrである。
海洋の硝酸イオンの収支は見合っておらず,現在,硝酸イオン濃度が低下している可能性がある。また,硝酸イオンの海水中の滞留時間が約3000年に下方修正されたので,硝酸イオン濃度が数千年という時間スケールで大きく揺らいでいる可能性もある。
こうした最近の理解を踏まえて,アルタベットらの解析結果をみると,ダンスゴー‐エシュガー・イベントと対応して,オマーン地域における脱膣菌による硝酸イオンの消費が変動し,それが全海洋における硝酸イオン濃度の増減をもたらし,ひいては生物のバイオポンプの大きさを変え,大気中の二酸化炭素濃度を調節しているというシナリオが描ける。
オマーン沖の海底掘削コアは,氷期‐間氷期サイクルにともなって炭素循環・窒素循環が大きく変動していることを明瞭に示し,私たちの気候変動のしくみに対する理解を深めた。しかし,因果関係を明らかにするには,北大西洋地域で明らかにされている気候変動がインド洋や太平洋地域の海洋変動とどう関連しているか,変動の時間的前後関係を明らかにして,そのしくみを解明していく必要がある。
生物のバイオポンプに影響を与えるものは,硝酸イオンよりも,リン酸イオン (R. S. Ganeshram et al: Nature, 415, 156–159 (2002))や鉄イオン(W. S. Broecker and G. M. Henderson: Paleoceanography, 13, 352–364 (1998)) の方が重要だともいう。さらに,今後危惧される地球温暖化予測においても,窒素循環を担う微生物の生物地球化学サイクルにおける位置づけを解明していく必要がある。
(川上紳一 (2002) 科学,72巻,5月号,504–505より修正)

© 2002 Gifu University, Shin‐Ichi Kawakami, Nao Egawa.