関市西部

↑梅原地震断層のすがた
関市地域に入った断層線は,武儀川・長良川の合流点にあたる沖積地を通過するために明瞭に現れませんでしたが,津保川沿いに入ると,関市柳洞付近までの何ヶ所かで明瞭な段差を形成しました.

関市西部

関市中央部
関市西部~中央部における梅原地震断層の推定位置と変位確認地点
(1 / 2.5万地形図「岐阜北部」「美濃関」を使用)


関市小屋名の断層線
関市の名鉄小屋名駅付近における梅原地震断層の通過位置を示す模式図
[野村(1991)による]

小屋名 / 断層崖 (2002)
関市小屋名の百年公園橋付近における梅原地震断層通過地点に見られる水田の段差
(2002年11月撮影)
奥に見える橋が津保川にかかる百年公園橋で,その手前に堤防がみえます.手前の橋げた付近に見える50 cmほどの田面の段差が断層運動による落差を表わします.

1. 小屋名(おやな) (梅原14)

長良川より東では,名鉄小屋名駅の北から東へ国道を横切り,津保川にかかる百年公園橋の北詰付近を通過して,倉知方面へ延びていました.小屋名では,『北70 °西の方向に走り,北落ち50~100 cmに及んだこともあった』(大森)とされ,断層線上の家は潰れ,北側が低下したことで用水路は逆傾斜になり,南側が涸れてしまったとされています.百年公園橋の西側には,津保川の流路方向に斜交して南側 (川側) が高くなる段差がつくられ,それは現在でも50 cmほどの水田の段差として確認できます.

2. 倉知(くらち) (梅原15)

倉知では,『断層が耕地・堤防・川などを横切り,北50 °西の方向に走り,北東側が約2 m陥落』 (大森) しました.この付近は1960年代に耕地整理が行われ,かなりならされてしまいましたが,現在でも下倉知の熊野神社では,神社の敷地が一段高くなっており,その北側に沿って約1 mほどの段差があります.その北方では約2 mの陥没分を嵩上げすることで家屋の敷地を確保している様子が現在でもみられます.

3. 山崎 (梅原16)

倉知より東では,山崎の南方で『津保川を斜めに越え,中野集落を横断し,稲口北部を経て,柳洞で再び津保川に入った』 (別所) .山崎の南側では,地震直後に河原の南側が隆起して津保川の流路が北側へ移ったとされています.山崎の南東側対岸にあたる中野では,集落の北側に沿って断層崖が出現し,それは現在も200 mほど続く段差として認められます.

稲口 / 段差(2002)
関市中野における梅原地震断層の断層崖
(2002年11月撮影)
手前 (北側) の田面と奥 (南側) の集落との間に明確な段差が認められ,東西方向に200 mほど続きます.


柳洞 / ポンプ場
関市柳洞にあるポンプ場
(2002年10月撮影)
後側 (北側) が津保川

4. 柳洞 (梅原17)

津保川南岸の中野~柳洞では,『垂直移動1.7 m,水平移動5 m,昭和の今日地変線の何物かをみるのに最もよいところ』 (別所)とされ,南側が隆起しました.この隆起を示す段差は現在でも明確に確認でき,水平ずれの様子もある程度は推測できる状況になっています.『柳洞の渡り場には洗堰があって津保川の水を潅漑用に取水していたが,地震後は水が柳洞へ落ちなくなったばかりでなく,南岸を洗っていた水は北岸に波打つようになり, 北岸では洪水があれば必らず浸水するようになってしまった』 (別所) .この取水口は地震後に水面よりはるかに高い位置になってしまったため,現在はポンプで揚水するようになっています.