理科教材データベース
岐阜大学教育学部理科教育講座(地学)
山県市教育センター 平成17年度夏季講座
「梅原断層」研修見学記

投稿  河村一彦(山県市教育委員会学校教育課)

集まったメンバー 2005年7月25日(月),小井土由光氏(岐阜大学教育学部)に案内をお願いして,山県市の南部を西北西−東南東方向につらぬいて走る「梅原断層」に関する研修見学会を行ないました。山県市役所駐車場に集合し,講師の先生に挨拶を兼ねて見学のねらいをお話いただいた後に,参加者18名が自家用車に分乗して,地元の貴重な教材を見学しました。



〜 その1 旧高富町高木の断層崖と河川の立体交叉(伏越) 〜

おうぎ橋  県道関−本巣線が鳥羽川にかかる「おうぎ橋」の上で,まず説明を受けました。参加者の誰もがいつも通っている馴染みのある場所です。濃尾地震の時に,この場所より下流側で,ほぼ東西方向に延びる梅原断層の南側が上昇する変位が生じました。それは,北から南へ向かって流れる鳥羽川をせき止める形となり,このあたり一帯に「深瀬の湖」と呼ばれる広大な湖が生まれたとの説明です。
おうぎ橋より下流  説明地点の橋の上から南側(下流側)を見た様子です。見えている「高木橋」の右岸側に比高1.5mほどの坂が見えています。この段差こそが濃尾地震の時に生じた梅原断層の断層崖にあたります。鳥羽川に直交するようにその下流側が上昇したことで,鳥羽川がせき止められたことになります。わずかな量の上昇のように感じますが,それだけで一帯が水没するような場所であることは意外でした。
おうぎ橋付近  せき止められて溜まった水をスムースに下流に流すため,鳥羽川の河床がかさ上げされました。そうすると,それまで鳥羽川へ東側から流れ込んでいた小河川の水は行き場を失いますから,鳥羽川の東側に並行して新川が掘られ,しばらく並走させた後に鳥羽川に合流するようにして,水はけをよくしたそうです。写真の右側(西側)の鳥羽川と左側(東側)の新川が並んで流れています。
伏越  鳥羽川の西側では,古くから居住地が広がっていることもあり,新川にあたるものが掘れません。そのため,鳥羽川の下をくぐらせて,鳥羽川の東側に流して新川に流れ込むようにしました。川の下に川を流す工法を伏越(ふせこし)といい,当時としても大掛かりな工事であったことが想像されます。
鳥羽川の西側  鳥羽川を眺めていても「伏越」はわかりませんが,川の中の変なところに水門が見えます。この位置の下に鳥羽川に直交するようにもう1つの川が流れています。
「伏越」の水門  このあたりでは,濃尾地震の時だけでなく,それ以前から梅原断層が動くたびに似たような変位を繰り返してきており,「湖」にあたるものがしばしば形成されてきたところだそうです。明治時代にやっと新川の掘削や「伏越」ができるようになったことになります。とりわけ,鳥羽川より西側からの水は「伏越」だけを頼りにして排水していることになり,ここから市役所付近にかけての地域は最も低い場所を形成しているため,現在でもたびたび水没します。「伏越」の水門でみられるゴミのたまった光景は,何となく水はけの悪さを連想してしまいました。


〜 その2 旧高富町持成(多福寺裏)の水平ずれ 〜

多福寺裏  お寺の裏を通る,どこでも見られるような普通の道ですが,注意してみると曲がっています。お寺の敷地がもともとこのように出っ張っていて,それに沿って道がついているぐらいにしか思っていませんでした。
水平ずれの証拠  もともとはまっすぐであった道が,濃尾地震のときに水平にずれたことで曲がってしまった場所です。曲がってしまった後に整地して元のようにまっすぐにしてしまうと,水平ずれの証拠は跡形もなく消えてしまいます。「水平ずれ断層では,目印にあたるものを残すことが大変重要であるが,簡単に消されてしまう」との説明には大いに納得させられました。「目印を残す力は,その意味を理解してもらう教育の力ではないでしょうか」との指摘には考えさせられました。
水平ずれの証拠  水平ずれ断層では,断層線をはさんで反対側が左へ動いている場合に「左ずれ断層」,右に動いている場合に「右ずれ断層」といいます。断層線の向こう側から見ても同じことになりますが,すぐにはピンとこないので,これを身振り手振りで説明する講師の先生は汗だくでした。


〜 その3 越切峠を通る梅原断層とラドン観測所 〜

垂直ずれの現場  旧高富町と旧伊自良村の境にあたる越切峠に梅原断層が通っています。しかし,山の中は平坦な場所ではないために,平地でみられる変位と異なり,新たに生まれた地形の変化がわかりづらいことになります。ここでは,濃尾地震の時に垂直ずれが起こり,その痕跡は現在も残されていますが,ヤブをかき分けていかないとそれが見えないため,説明だけとなりました。
垂直ずれの痕跡  見に行くことができなかった痕跡がこの写真です。ヒノキの根が右上に向かって延びています。このヒノキが若木のときに,木の右側が断層によって持ち上がり,持ち上げられてしまった根がそのまま成長したことでこのような状態になったのだそうです。
ラドン濃度観測施設  越切峠には,地震予知を目的として「ラドン濃度観測施設」が置かれています。ラドンという元素は水に溶けやすいために,岩盤中に割れ目ができて,そこに地下水がしみ込むと,岩石中のラドンが地下水中に溶け出すために,ボーリング孔内での地下水中のラドン量を常時観測して,その変化の様子をみているのだそうです。
 大地には常に力が加わっていて,歪が蓄積されていき,その限界がくると破壊されて割れ目(断層)が作られます。その時にでる振動が地震ですから,理屈からすると,ラドン量の変化を観測することが地震予知になるとのことです。
ラドン濃度観測施設  こうした施設は,岐阜県が県内のいくつかの主要な活断層沿いに設置しており,観測データは岐阜大学にリアルタイムで送られているそうです。最も気になるその成果ですが,ラドン量に変化を及ぼす要素が他にもあるため,現時点では,できるだけ多くのデータを得て,事例の対応を検討する段階のようです。


〜 その4 旧伊自良村大森の亀裂 〜

梅原断層  旧伊自良村では,梅原断層はほとんど伊自良川沿いの低地の中を走っています。断層によるずれは,固い岩盤では明確に現れても,その上に載る比較的やわらかい地層内では,亀裂程度の変化しか現われないことが多いそうです。そうした亀裂は,雨ざらしにされれば,すぐに崩されて埋まってしまい,痕跡も残らなくなってしまいます。
竹林の中の亀裂  ここでは,偶然にも竹林の中に亀裂が発生したため,それに守られるように現在でも痕跡が残っている場所です。ただ,竹林は,手入れをしないでおくとどんどん竹の数が増えていき,当初は竹の生えていなかった亀裂の中にも多数の竹が生えてしまっているため,わずかな凹みとしての痕跡しか残っていませんでした。時間が経つにつれてだんだんわかりにくくなっていくのは,仕方のないことなのでしょうか。


〜 その5 旧高富町森の段差 〜

梅原断層  時間の余裕がでたため,高富まで戻って,鳥羽川より東側の様子も見学しました。
 ここは,水田の畦が50cm程度の段差を作っているだけです。そこに流れる水路に,「前の週に教材用のザリガニを取りに来たばかり。ここが断層崖だとは思いもしなかった」とは,ここが校区になっている高富小学校の先生。言われるまでは,濃尾地震の時に生じた垂直ずれとは思えないほどのわずかな段差でした。


〜 研修を終わって 〜
 研修見学を終わるにあたって,講師の先生からこんなことが言われました。「梅原断層を含めて活断層というものは,大地震を引き起こす元凶であり,恐ろしいものであると。そのように教える方も,教えられる方も思い込んでいるし,思い込まされている。しかし,それは明らかに不十分な理解であり,自然を本当に理解したことになっていない。私たちは活断層の運動で作り出された平野や谷を利用して生活の場としている。人間の生活の基盤を作ってくれている活断層に感謝してもおかしくないのに,それをまったく無視して勝手なことだけを言っている。本当にそれでいいのか,理科教育・自然科学教育の姿として反省すべきではないか。」
 地元に恐ろしい梅原断層が通っているとの認識はあっても,それが作り出してくれた大地の恩恵には気が付かなかったというのが実情です。今回の研修を通じて,新たな目で大地を,さらには自然を理解し,それを子供たちに伝えていく機会になったと思います。

参加された方々の感想のいくつかを紹介しておきます。

講師の先生による断層を人間味あふれるとらえ方に心を動かされました。地学という冷たい学問の中に新たな見方を与えていただいたと思います。ありがとうございました。

身近な自然現象をとらえるには,やはり専門家による説明が一番だと感じました。また,研修を通して人のつながりができ,後日,講師の先生のところに授業作りの相談に伺っうことになりました。授業作りなどに大変有意義でした。


最後に,当日の写真を提供いただいた山元敏治校長先生にお礼を申し上げます。

河村 一彦